最新の記事

test (08/17)  test (03/22)  こうしん (02/12)  たつあっきーの白熱教室&功利会計基準審議会@ニコ生 立ち上げ! (12/17)  更新 (12/12)  てsてs (10/09)  てs (08/29)  移植 (07/20)  【ヒュームの法則】 (04/28)  自然主義的誤謬 (04/28) 

記事一覧はこちら

スポンサーサイト

カテゴリ:[スポンサー広告]
  1. 名前: utilitackey --/--/--(--) --:--:--
    上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
    新しい記事を書く事で広告が消せます。
    [スポンサー広告]

コメント

  1. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/18(月) 09:51:24 URL [ 編集 ]

    http://utilitarianism.blog109.fc2.com/?no=58#%3E%3E4より移動

    >質問があるのですがutilitackeyさんの仰る「可変」の意味がよくわかりません。
    >今のところ、「俺」個人に対しての道徳
    >「日本」全体に対しての道徳
    >「世界」に対しての道徳
    >というように可変的に道徳を定めようとする意味だと理解しているのですが、
    >適用できるのは一つしかないはずです
    >(あるときは「俺」の道徳で行動し、あるときは「日本」の道徳が行動原理になるのはおかしい)
    >つまり可変という立場は矛盾を産んでしまうのでは?と考えています
    またいい指摘ですなー
    まず、ハリスが人類という立場から道徳を見ているのはおそらくそのとおりだと思う
    けれどもそんなハリスも
    米国において(米国にとって?)善いことかとか
    家族において善いことか
    自分において善いことかなど
    場面によっていろんな善悪を使い分けると思う

    そして米国において善いことだが人類において悪いこととか
    自分において悪いことだが米国において善いことなど
    矛盾する状況に陥ることもあるだろう
    そんなときは、自分の欲求に従って行為することになる
    利他的欲求のあり方として身近な人間を重視していれば、
    人類において悪いことでも米国において善いことをする
    利他的欲求が強ければ、自分において悪いことでも米国において善いことをする

    >つまり、スタンスを確定することにより、道徳は科学だと言えるし、
    >幸福が数値で表せれるのなら普遍的な道徳を定義することは可能だと思います
    議論する際に、
    「この議論では人類における善悪を考える」などまず宣言する
    (スタンスを明らかにする)
    そうすれば、その議論において科学としての道徳を使えるわけです

    こういうことは実のところ自然に為されていることだと思います
    例えば日本の国会で死刑制度の是非を議論するときは
    (少なくと建前では)日本の功利(国益)をめぐって議論されているはずです
    これは何が日本において善い法かと争っていることになります
    国連ならば(少なくとも建前では)
    何が人類にとって善いことかを議論しているでしょう
    企業なら何が自社にとって善い政策かを議論するわけです
    善悪という言葉がこのように使われているというのが大切です

    「善悪」は人類においてのみ使われるとしてしまっては
    大きな混乱が生じるでしょうし
    また、善悪の範囲はなぜ人類なのかという問いもでます
    動物も功利を持つのではないのかというのは当然の反論だと思います
  2. 名前: 自殺仏 ◆JalddpaA 2011/04/18(月) 10:44:17 URL [ 編集 ]
    なるほど!
    俺は道徳は全員が同じものを信じる。みなが同じ行動原理で行動するものだと思っていたので、しっくりこなかったのですが、割と裁量で行動できるのですね。納得しました

    それで、「俺」から見た道徳、「日本」から見た道徳… をスタンス別に科学的に定義してしまって、その都度個人が裁量で判断する。

    しかし、それならスタンス別の道徳の定義は科学的で完璧・真理だとしても、個人の裁量が異なるわけだから、結局意見が異なる。科学で定義した意味が無くなりませんか?

    道徳は皆が同じことを思い、同じ行動をするから道徳なのであって
    そこに個人の裁量が入ると、それは「個人の倫理」に当たるような気がします。

    なので、道徳はある種の強制力を持たせるため個人の裁量を除かなければならない
    つまり「可変」という立場を取った時点で「道徳」ではなくなる


    個人の倫理としての判断基準に科学的に定義された善悪を用いるのは構わないのですが、道徳は皆が共有する法律のようなものなので、裁量が入ってはならない。最初からスタンスを明確にして皆に信じ込ませないといけないと思うわけです。


    つまり善悪は可変という立場で論じられますが、道徳は可変では論じられない

    なんか「道徳」という言葉の定義が俺とutilitackey さんとで違うだけな気がします…なので「道徳」を「善悪」に置き換えればutilitackey さんの意見に同意です



  3. 名前: 自殺仏 ◆JalddpaA 2011/04/18(月) 10:54:36 URL [ 編集 ]
    どう‐とく 〔ダウ‐〕 【道徳】

    1 人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。

    デジタル大辞泉からですが、罰則の無い法律と俺は解釈しています
    法律に個人の裁量がないように、道徳にも個人の裁量がない

    しかし、こうしてみると日本の道徳教育はただの管理教育ですよね…
    話が飛躍しますが、道徳に限らず日本の教育は子供の内なる力を引き出すものではなく単なる管理。
    画一的な労働力を生み出す工場であるような気がします…


    追記
    法律に個人の裁量が含まれないというのは
    俺は運転上手いから法定速度+50キロでOK!が許容されないという意味です
  4. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/18(月) 12:44:32 URL [ 編集 ]
    >>3
    そうだね
    自殺仏さんの使い方のほうがしっくりきそうだ
    こういう言葉の使い方はどうだろう…
    善悪に関する学問(倫理学)
    範囲をみんなにしたときの善悪(道徳)

    けどウィキみると、
    倫理学の別名が道徳哲学だったりするんだよね…
    一般には倫理と道徳はあまり区別されていないと感じるし…
    まあとにかく善悪について僕は論じたい
    そして善悪は一種の事実であると僕は考える

    >それで、「俺」から見た道徳、「日本」から見た道徳… 
    >をスタンス別に科学的に定義してしまって、その都度個人が裁量で判断する。
    >しかし、それならスタンス別の道徳の定義は科学的で完璧・真理だとしても、
    >個人の裁量が異なるわけだから、結局意見が異なる。
    >科学で定義した意味が無くなりませんか?
    そんなことはない
    ここでの問題は、「俺からみた善悪」「日本からみた善悪」というよりも
    「俺における善悪(俺に対する善悪)」「日本における善悪」だ
    これは
    「俺の功利の増減」「日本(という集団の構成員の)功利の総和の増減」であり
    功利が電気信号あるいはそれに準ずるものだとすると
    まず、それが事実の問題であることは確かだ
    しかしその測定や予測は今のところ非常に困難であるから
    各人その事実の問題に対して様々な意見をもつだろう
    (富士山がいつ爆発するのかあるいはいつ爆発したのかについていろいろな意見があるのと同じだ)
    いろいろな意見があるからと言って議論が意味を持たなくなることはないし
    「富士山がいつ爆発するのか」という問題と「阿蘇山がいつ爆発するのか」をそれぞれ別々に議論することに意味があるように
    「俺の功利の増減」と「日本の功利の総和の増減」について
    どちらについて論じるかを決めて、それぞれ別々に議論することには意味がある

    >個人の倫理としての判断基準に科学的に定義された善悪を用いるのは構わないのですが、
    >道徳は皆が共有する法律のようなものなので、裁量が入ってはならない。
    >最初からスタンスを明確にして皆に信じ込ませないといけないと思うわけです。
    教育の問題になるのかな…
    どの範囲の善悪でもって教育を行うのか
    教育は社会(国)の為(社会の功利の総和の最大化の為)に行われるものだから
    社会における善悪(上の道徳)でもって行われるべきだと思う
    こどもには、社会における善をしたい欲求を洗脳して植えつける
    けれども、ある程度成長したら、善悪についての範囲は可変であることも教えておかないと
    日本と国際社会(人類)の善悪が異なる問題や
    動物に対する善悪などの問題にぶつかったとき
    ただ善をなせと教育されてきた子どもは相当混乱するだろう
    (現に多くの人が混乱している)

    長々書いたが、僕の説は多分一般的でない(僕はみたことない)
    >>1にも小さく書いたけど、
    普通倫理学は、人類(社会)における善悪というようなもののみを扱うし
    それに異を唱える人も、可変であると主張するよりも
    動物あるいは人格を持つものに拡張(修正)しろと主張している
  5. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/18(月) 13:01:53 URL [ 編集 ]
    >>4
    >法律に個人の裁量が含まれないというのは
    >俺は運転上手いから法定速度+50キロでOK!が許容されないという意味です
    社会における善悪に対していろいろな意見があることと
    その社会の多数派の見解に従わないことの善悪は別だと思う

    多数決で法が成立する社会における法定速度50kmというのは
    運転のうまい人でも50kmまでにすることが善なる法だと
    社会の多数派が考えているということだ

    これと違う意見を持つことはあっていいし
    その意見が正解であるかもしれない

    しかし、たとえ正解であったとしても、
    多数派の見解(法)に従わないことは、
    秩序を乱すことによる功利の減少を生じさせるわけで
    多くの場合、悪になる
    (秩序を乱しても功利が増加するような場合は法を破ることも善になる…
    例えば死にかけてる人を運ぶために100kmで飛ばしたとかならこれに当たるかもしれない)
  6. 名前: 自殺仏 ◆JalddpaA 2011/04/18(月) 13:39:38 URL [ 編集 ]
    >>こういう言葉の使い方はどうだろう…
    善悪に関する学問(倫理学)
    範囲をみんなにしたときの善悪(道徳

    なるほど!倫理と道徳の違い~ってのは余計でしたね…
    俺はイメージとして、西洋=倫理 東洋=道徳  としてました

    >>「俺の功利の増減」と「日本の功利の総和の増減」について
    どちらについて論じるかを決めて、それぞれ別々に議論することには意味がある


    これは俺も完全に同意です。ただ俺が言いたいのはせっかく議論してもそれが反映されなければ意味が無い・もったいないと言いたかった。
    つまり議論するのは有益だから、しっかり最後まで反映させるべきだという意見です(「倫理」とすると反映されるのだから問題がない)


    >>けれども、ある程度成長したら、善悪についての範囲は可変であることも教えておかないと
    日本と国際社会(人類)の善悪が異なる問題や
    動物に対する善悪などの問題にぶつかったとき
    ただ善をなせと教育されてきた子どもは相当混乱するだろう



    全くの同意です。所謂道徳は一つのスタンスからみた善悪で、絶対的な正解・正義ではない。範囲は常に限定されていない



    >>普通倫理学は、人類(社会)における善悪というようなもののみを扱うし
    それに異を唱える人も、可変であると主張するよりも
    動物あるいは人格を持つものに拡張(修正)しろと主張している



    これは単純に「可変」という概念が難しいからではないでしょうか?
    道徳などはシンプルなのが望まれる。
    善悪が可変である・範囲は一定ではない というのは全員が知る必要がないと考えられているからでは?
  7. 名前: 自殺仏 ◆JalddpaA 2011/04/18(月) 14:06:38 URL [ 編集 ]
    >>多数決で法が成立する社会における法定速度50kmというのは
    運転のうまい人でも50kmまでにすることが善なる法だと
    社会の多数派が考えているということだ
    これと違う意見を持つことはあっていいし
    その意見が正解であるかもしれない



    仮にその意見が正しい(個人も全体もプラスにする)としても違法は違法です。病人を運ぶという理由があったとしても

    それは法は恣意的に解釈できない、強制力のあるルールだからです
    道徳も個人の裁量が入らないように、同じような冷たさ・融通の利かなさが必要だという意見です

    本音が倫理で、建前が道徳 
    道徳は普遍的なものだから、円滑に世の中が回るために多少の不条理には目をつぶれということです

    つまり「道徳」は社会における善悪に対していろいろな意見があってはならない
    社会が善と言えばそれに盲従しなければいけない
    それが所謂「常識」や「道徳」だと考えています。
    「空気」や「同調圧力」と言ってもいいかもしれません
    国民皆の善悪の判断がバラバラだと困るので、社会が「道徳」として一つの善悪の模範解答を示さなければならない



    しかし、道徳=倫理とすれば俺の考えは成り立たないのでutilitackey さんの意見に賛成です
  8. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/18(月) 22:11:26 URL [ 編集 ]
    >>7
    自分に対する善悪
    家族に対する善悪
    国家に対する善悪
    人類社会に対する善悪

    これらが矛盾する場合、
    どの範囲の善悪に基づき行動すべきでしょうか
    これについて僕の説では答えは出ません
    自分に対する善悪に基づくのが自分に対して善く(自分の功利を増加させる)
    家族に対する善悪に基づくのが家族に対して善い…となるだけです

    自分を犠牲にしてでも家族に尽くすべきだ
    家族を犠牲にしてでも国に尽くすべきだ
    国を犠牲にしてでも人類社会に貢献すべきだ
    人類社会を犠牲にしてでも地球(動物全体)に貢献すべきだ
    まずどの範囲で考えるのかを前提としておかない限り
    これらに答えることはできないということです

    これは妥当な結論であると思います
    どの集団に奉仕したいかはその人の利他的欲求のあり方(どこまで同情が湧くか)で決まるものです
    どの集団に奉仕したいか(その人の性格)についても範囲を無視した善悪というものはなく
    国家に奉仕する性格は、国家に対して善い
    人類社会に奉仕する性格は、人類社会に対して善い…としか言えないはずです

    逆に、どの範囲で考えるのか前提がはっきりしている場面では答えることが出来ます
    教育をはじめ政治は、国という範囲の善悪(国益)を考えるものですから
    政治家は家族や人類社会を犠牲にしてでも国に尽くすべきでしょう
    学校でも(それを明示的に示すべきかは考慮の余地があろうが)家族や人類社会を犠牲にしてでも国に尽くのが「善」と教えるべきでしょう

    注意して欲しいのは、上で書いたのはあくまで
    自分に対する善悪や、家族にたいする善悪、
    国家に対する善悪、人類社会に対する善悪が矛盾している場合の話です
    個人に人類愛的な利他的欲求があるのなら
    多くの場合、それらは一致することになるでしょう


    >これは単純に「可変」という概念が難しいからではないでしょうか?
    >道徳などはシンプルなのが望まれる。
    >善悪が可変である・範囲は一定ではない というのは全員が知る必要がないと考えられているからでは?
    ベンサムの時代ならそうだったかもしれない
    範囲はとりあえず国民(白人社会)として
    とにかく不合理な法を早くなんとかしたかったんだろうね
    今ある多くの問題は、
    人類と国家に対する善悪の矛盾や
    人類と動物に対する善悪の矛盾からきていたりするから
    これが浸透して欲しい
    可変であることを示した規範倫理(原理)は
    「ある集団の功利の総和を増加させる性質を、その集団における(対する)善という」※個人は要素が一つである集団と考える
    こんな感じ、実のところ
    「功利を増加させる性質を善という」ってのとまったく同じことで
    後者には必然的に前者の意味が含まれていると僕は思うんだけどね


    >>8
    悪法って概念があると思うんだよね
    【法と倫理の関係】って形でスレたてしようかな…
    僕的には
    自然法…合理的な(自己の功利を追求する)契約能力者間に自ずから成立する契約
    ってかたちで考えて
    法における善悪は、契約能力者における功利の増減を考えるものとする
    悪法は、契約能力者の功利を減少させる法であり
    あるべき法は、契約能力者の功利を最大化させる法であると

    自然法や社会契約説と功利主義は対立するってよく言われるんだけど
    功利の考慮範囲を可変としたら、このようにうまく統一できると思う

    で、悪法も法なりで、
    悪法でも破ることによって功利の減少が生じるのは確かだと思うんだけど
    そこはやはり功利の比較衡量が必要なのであって
    法(成文法だけじゃなく不文律も含む)を守ることで
    例えば、地球が滅亡したり、日本が滅亡したりするなら
    法を破ることが善になるのが明らかだろう

    もちろん自殺仏さんのおっしゃるとおり違法は違法だけどね
    (悪法は法でないという考え方に立つとそれもかわってくるけどね
    ざっくり言って憲法は
    「国民の幸福の最大化のために法律を作れ、
    明らかにそうなってない法律は違憲であり法ではない」
    って考え方をしてる
    憲法と法哲学は密接に結びついてるからおもしろい)
    やっぱこれはひとつの論点にするに値するな…
  9. 名前: 自殺仏 ◆JalddpaA 2011/04/20(水) 22:23:23 URL [ 編集 ]
    コメント遅くなって申し訳ない…

    俺は「道徳」って言葉がすっごく嫌いだから、言葉のイメージで噛みついてるだけかな?って思ったりもするんですが…


    道徳と倫理は違うと認識する
    道徳=罰の無い法律として
    (俺は法律=事が起こってから適用する 道徳=事が起こる前に適用する  ってイメージがあります)

    俺のスタンスからみた善悪=倫理
    日本のスタンスからみた善悪=道徳
    とした場合

    制限速度を例にすると
    速度違反する=俺の倫理では善  一般道徳では悪
    速度守る=俺の倫理では悪  一般道徳では善

    ↑これがutilitackeyさんの仰る可変ですよね?
    じゃあ可変ってのは理解した!でも俺は実際速度守るべきなのか、違反するべきなのか って問題が出てきませんか?

    で、可変ではその問題に対応できないと思うわけです。utilitackeyさんもそう仰ってますが


    だから基本はutilitackeyさんの仰る意見に全面的に同意なのですが、
    「道徳」とするならば、それは日本国内の問題なので、スタンスを日本からみた総和に固定してしまったほうがいいと思います

    「倫理」の場合は固定する必要はない

    つまり俺の意見は
    倫理なら可変で、道徳なら日本からみるスタンスをとる
    になります



    まあ俺がこう思うのは、捕まらなければ何してもいい!、やったもん勝ち!とか思ってる社会不適合者だからだと思うのですがw
  10. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/21(木) 05:55:00 URL [ 編集 ]
    >>10
    >コメント遅くなって申し訳ない…
    いやマジで好き勝手にやってね、僕もそうだし
    たくさん来てくれたら嬉しいけども

    言葉はね…僕が今まで書いてきた倫理や道徳を
    全て「善悪」と書き換えてもいいんだけど…
    大変だし、倫理≒道徳≒善悪って使い方も
    一般的でないってレベルではないだろうからこのまま行きたい
    (道徳は定義しなおしてもいいかな…)

    >速度違反する=俺の倫理では善  一般道徳では悪
    これは考慮している功利の範囲はどちらも国民だろう
    国民の功利が増加するか減少するかについて
    「俺」の意見と「多数派(立法者)」の意見が違うということだろう
    僕が言ってる「可変」は、考慮する功利の範囲についてのものだ
    原発を作ることは、東京において善である(東京の功利を増加させる)が
    福島においては悪(福島の功利を減少させる)というような使い方ができるというのが「可変」の意味だ

    功利主義を前提にするならスレタイを
    【功利を考慮する範囲をどうするか】に変えてもいいかもしれない
    (一般に倫理学はこれを人類全体として固定してしまう)

    考慮する功利の範囲はいろいろ考えられるのだが
    その範囲を国としたときの善悪…
    これを道徳と呼ぼうという提案はわかる
    わかるが人類道徳という使い方がある事を念頭において
    僕なら日本国の法(法律のみでない広義)と表現したいかな
    (あるいは日本国の道徳か)
    そうすると、結局、日本国における善悪、東京における善悪…と表現するのと変わらないわけで…
    やはり単なる「道徳」とか「倫理」とかいう言葉に
    国におけるとか、個人におけるというニュアンスを入れるのは
    適当でないかもしれない
  11. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/21(木) 12:38:00 URL [ 編集 ]
    安楽死さんがいい指摘をしてくれた
    【自殺(安楽死)に対する倫理的評価】
    http://utilitarianism.blog109.fc2.com/?no=67#%3E%3E14
    以下上記レスより引用

    あなたは例のスレで、幸福最大化装置に入れれば、子供を作ることは無駄、人類がその世代で途絶えても問題ないと言いました。しかし功利主義で行けば、幸福最大化装置がある世界で人類を途絶えさせてはいけないとも言えます。なぜなら、子供を作り、子供も幸福最大化装置に入れれば子供も幸せな人生を送ることが出来、幸福の量が増えるからです。こうして幸福最大化装置を味わう人を出来る限り増やし、出来る限り長い期間人類を途絶えさせずに、人体も幸福最大化装置のために最適化させるように遺伝子などを操作し、最大幸福を最大人数、最大期間、最大効率で行う方が道徳的に正しいという結論も出せます。
    しかしあなたは幸福最大化装置を作った世代で人類が途絶えても良いと言いました。
    これはどうしてですか?功利主義にも功利の定義に関する複雑な問題があり、問題を抱えているのは義務論だけではありません。どちらもそれぞれ問題を抱えているというのが私の意見です。
  12. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/21(木) 13:09:54 URL [ 編集 ]
    >>12
    どういう時間的範囲の功利を考慮して善悪を判断するかという問題だと思う
    考慮する功利の範囲は可変であるとする僕の立場からは、
    当然、現在及び将来の人類における善悪というものを観念することができる

    けれども、僕らが話題にするのは(現在いる)人類における善悪であることがほとんどだ
    それは僕らが話しているのは(現在いる)人類だからだ
    (現在いる)人類の功利についての話だから、「変人の遊び」ではなく「公の議論」になると言い換えてもいいだろう

    例えば、日本で公に議論する場合は、専ら(現在いる)日本国民の功利をめぐって議論している
    もしかすると、「自分らの死後に生まれてくる子ども達のためにこれ以上借金を重ねないでおこう」というような議論があるじゃないかと思うかもしれない
    それは確かに将来の人類の功利について言っている
    しかし、それは(現在いる)日本国民が、死後生まれてくる子どもの幸せを確信したいというような利他的欲求を持っているから言われる主張なのであって、
    これもまた(現在いる)日本国民の功利についての主張だ
    その証拠に、そのような欲求が無い人は、上のような主張をしない

    幸福最大化装置の倫理的評価についても
    僕らは暗黙のうちに、(現在いる)人類の功利をめぐって議論している
    もしその前提を変えたならば、それは「公の議論」ではなくなるだろう
    自分と(潜在的な)話し相手達の功利を巡る議論だから熱を帯びるのだ
    (現状でも過疎ってるがもっと過疎る)

    この点、あるべき法として議論するならもっと明確になるだろう
    法は契約能力者の功利を最大化させるためにあるのだから
    この場合、契約能力者(現在の有権者)の功利を考慮して善き法か悪い法かの判断をすることになる
    もし社会がより善い方向に向かって進歩するのであれば
    自由主義や民主主義が成立したように
    いずれ幸福最大化装置を強制するような法が成立する

    これは自殺仏さんの
    >で、可変ではその問題に対応できないと思うわけです。
    に対する反論にもなるのかな

    可変であるがゆえに、ここまで前提を巡って議論しなければならないという意味では
    >国民皆の善悪の判断がバラバラだと困るので、社会が「道徳」として一つの善悪の模範解答を示さなければならない
    という主張に説得力が生まれるかもしれないね
    でも僕は、この「前提を巡る議論」が必要かつ有益だと思ってる

    このスレやさっきのスレにも該当しない
    義務論からの功利主義に対する批判が他にもあれば
    【功利主義VS義務論】
    http://utilitarianism.blog109.fc2.com/blog-entry-68.html
    に書いてくれればいいと思う
  13. 名前: 自殺仏 ◆JalddpaA 2011/04/21(木) 19:41:27 URL [ 編集 ]
    >>>速度違反する=俺の倫理では善  一般道徳では悪
    これは考慮している功利の範囲はどちらも国民だろう
    国民の功利が増加するか減少するかについて
    「俺」の意見と「多数派(立法者)」の意見が違うということだろう


    この場合考慮している功利の範囲は
    俺の倫理が俺からみた範囲  個人のスタンス
    一般道徳が国民になります  国民のスタンス
    スタンス別の善悪・功利は科学によって定義されているので、一つのスタンスからみると意見が合いますが、異なるスタンスの善悪が共通しない場合はどちらのスタンスにするべきなのか?
    が問題になるのですが…



    これは、例えば「個人の善悪」なら科学で決まっているので個々で意見が異なることはない
    そして多くの場合スタンス別の善悪も一致する(個人、国民 どちらの善悪で判断しても行動が一致する)

    もし、スタンス別の善悪が異なる、矛盾が生じる場合は総和が大きいほうを優先させる とすれば皆の行動原理も一致しそうですね
    (これがutilitackeyさんの言う可変かな?)




    道徳や倫理に個人や国民のニュアンスを持たせる~っていったのは議論をややこしくさせるだけで、ミスでした…

    (日本には道徳はあるが倫理が無い  村社会的
     欧米は倫理はあるが道徳が無い)  神 対 自分

    ↑今までこういうイメージで認識していたので、utilitackeyさん
    の仰ることがしっくりこなかったです…
  14. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/22(金) 03:00:43 URL [ 編集 ]
    >>14
    >俺の倫理が俺からみた範囲  個人のスタンス
    >一般道徳が国民になります  国民のスタンス
    なるほど
    「俺から見た範囲」ってのは「俺の利他的欲求が及ぶ範囲」ってことだよね
    とすると「個人のスタンス」ってのは
    ある個人の功利の増減(個人における(対する)善悪)と同じ意味になる
    (例えば、あなた個人のスタンスにおいて、
    あなたは家族の功利の増減を考慮していると主張するかもしれないが
    それは実のところ、その家族の功利の増減による自身の功利の増減を考慮しているということだ)

    ところで、個体は、自身において(対して)悪いと「思う」行動をとれるだろうか
    これは自分にとって苦であると思う行動を取れるかということに似ていて
    僕は、動物は、快苦(欲求)によって動くと考えるから、とれないと答える
    これは、【行為(選択)の原理】の話だ
    (この点、注射は自身にとって善であるとわかっているのに無理だという人はどうなんだっていうツッコミができそうだ…動物ではなく理性ある動物とすべきなのか…)

    >もし、スタンス別の善悪が異なる、矛盾が生じる場合は総和が大きいほうを優先させる
    >とすれば皆の行動原理も一致しそうですね
    (理性ある)人間は、自身において(対して)悪である行為をすることはできない
    従って、個人において悪であるのに、国において善であるからといって、行為することはできない
    (だから、教育で利他的欲求を育てたり、刑罰を定めたりして、
    個人における善悪と、国における善悪が一致するように努めている)
    それではなぜ、こういう場で、個人における善悪でなく、
    国における善悪や人類における善悪をめぐって議論するのだろうか
    その答えが>>13になるのだが、逆説的に言えば
    もし、それぞれの個人における善悪をめぐって争うなら
    功利を考慮する範囲がバラバラになって議論にならず
    また、それぞれの個人の善悪において考慮される功利の範囲を統一しようとすれば、
    それは利他的欲求のあり方を統一しようとすることを意味し
    議論は人格攻撃に堕してしまう
    (「君が家族までにしか同情を感じないのは変だ」とか)

    >(日本には道徳はあるが倫理が無い  村社会的
    > 欧米は倫理はあるが道徳が無い)  神 対 自分
    小林よしのりの漫画で見た見解だ
    どこかからの引用だったと思うけど…忘れた
    悪く無い言語の使い方だと思うんだけどね…
    (この日本人観が正しいなら、
    日本人は昔から功利主義的で、欧米は義務論的ってことになるのかな
    で義務論的な社会へのある種の反発として欧米で功利主義が発達してきたと…)
  15. 名前: 自殺仏 ◆JalddpaA 2011/04/22(金) 03:57:27 URL [ 編集 ]
    なるほど

    「俺からみた範囲」と「個人のスタンス」
    を利己的欲求のみでしか考えていませんでした…

    そういや普通の人wは利他的欲求もあるんでしたね…


    >>ところで、個体は、自身において(対して)悪いと「思う」行動をとれるだろうか 」


    無理でしょう。あるいは悪いと認識していなければ出来るでしょうが
    注射の例なら、注射をする行為に限って言えば拒否が善です
    でも長期的にみる・行為の結果も考慮すると注射するのが善です

    どちらを選んでも善だと言える


    >>もし、それぞれの個人における善悪をめぐって争うなら
    功利を考慮する範囲がバラバラになって議論にならず
    また、それぞれの個人の善悪において考慮される功利の範囲を統一しようとすれば、
    それは利他的欲求のあり方を統一しようとすることを意味し
    議論は人格攻撃に堕してしまう
    (「君が家族までにしか同情を感じないのは変だ」とか) 」




    そうですね。利他的欲求と利己的欲求を明確に区分しなければならず
    欲求の範囲も統一しなければいけない


    >>小林よしのりの漫画で見た見解だ
    どこかからの引用だったと思うけど…忘れた


    俺はこの言葉を友達から聞いたので、元ネタは分かりません…

    >>(この日本人観が正しいなら、
    日本人は昔から功利主義的で、欧米は義務論的ってことになるのかな
    で義務論的な社会へのある種の反発として欧米で功利主義が発達してきたと…)


    俺もそう思います。あと共同体をどこに持ってくるかの違いもあると思います
    言葉は悪いですが、日本は自発的に善をしようと考えるのではなく
    周りの目を窺う陰湿な監視社会だと言える
    村社会的で右に倣えの精神

    俺は日本好きですけどねw

  16. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/23(土) 02:45:12 URL [ 編集 ]
    絶対善みーつけた@論客コミュニティー
    http://www.yamcha.jp/ymc/DSC_sure.html?bbsid=1&sureid=176&s=50&k=1#msg1_176_119

    ここでされてる議論が、
    範囲が曖昧であることによる混乱の典型かなと思う

    >>16
    日本は、宗教的な束縛が緩いってことかもしれませんね

コメントの投稿(コメント本文以外は省略可能)





管理者にだけ表示を許可する

【どの範囲において倫理的評価をするか】

カテゴリ:[規範倫理]
  1. 名前: utilitackey 2011/04/18(月) 06:00:55
    人なのか?国なのか?社会なのか?快苦をもつものなのか?可変なのか?
    自説は可変

    社会における倫理(自殺仏さんのいう道徳?)
    自分における倫理(自殺仏さんのいう倫理?)

    契約能力者の集合における倫理(法哲学・政治哲学)
    会社(株主)における倫理(経営学?)
    経営学は範囲を会社としかつ
    功利を金銭に限定している(置き換えている)?
    個体における倫理(心理学?)
    このように功利主義の一部として、様々な(価値判断の学問)が生まれている?
    経済学は功利…効用を最大化するための学問?

    倫理的評価とは功利の意味を最も広くとった…すべての快苦を考慮した価値判断?
    それとも、人類、国、地域、社会、自分、動物など様々な範囲で倫理的評価が成り立つ?
    みんなってどこからどこまでなの?
    個体に対する善悪はないのか?

    可変だという自説は要するに…
    これからは単に善とか悪とか言うのはやめて
    日本国において善とか人類社会において悪とか
    地球(人間と動物)において悪とか言っていこうよということです

    そう考えることで様々範囲における倫理というものを考えることが出来、
    他の学問と倫理学の関係をスッキリと説明することになると思っています
    そして、個人における善悪というのも考える事ができて
    (社会において何が善か悪かに対する自分の意見ということではない
    例えば、「ポイ捨ては社会悪だと私は思う」というのとは違う
    「ポイ捨ては自分にとって気分が悪い」とかそういうことについて言ってる)
    この個人における善悪というのが好悪(好き嫌い)という言葉に対応するのではないかと思う




    伝統的には最大の範囲をとるのが倫理学だと考えられてきたと思います
    ベンサムは差し当たって「人」という範囲で考えましたが、
    いつの日か功利主義の傘は動物にも及ぶだろうといった趣旨の発言をしています
    そして現代のシンガーは「動物」の範囲で倫理を考えているようです
    シンガーは神経の発達していないものの功利を小さいものとし
    「人格」あるものの功利を大きなものと考えることで現実的な結論を導いているようです
    カントはもちろん理性ある存在として人をその範囲とするのでしょう
    いずれにしても僕がみる限り一般には、「一定の範囲(でなければならない)」と考えているようです
    関連記事
    スポンサーサイト

    コメントを書き込む コメントを読む(16) トラックバック(0) [規範倫理]

コメント

  1. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/18(月) 09:51:24 URL [ 編集 ]

    http://utilitarianism.blog109.fc2.com/?no=58#%3E%3E4より移動

    >質問があるのですがutilitackeyさんの仰る「可変」の意味がよくわかりません。
    >今のところ、「俺」個人に対しての道徳
    >「日本」全体に対しての道徳
    >「世界」に対しての道徳
    >というように可変的に道徳を定めようとする意味だと理解しているのですが、
    >適用できるのは一つしかないはずです
    >(あるときは「俺」の道徳で行動し、あるときは「日本」の道徳が行動原理になるのはおかしい)
    >つまり可変という立場は矛盾を産んでしまうのでは?と考えています
    またいい指摘ですなー
    まず、ハリスが人類という立場から道徳を見ているのはおそらくそのとおりだと思う
    けれどもそんなハリスも
    米国において(米国にとって?)善いことかとか
    家族において善いことか
    自分において善いことかなど
    場面によっていろんな善悪を使い分けると思う

    そして米国において善いことだが人類において悪いこととか
    自分において悪いことだが米国において善いことなど
    矛盾する状況に陥ることもあるだろう
    そんなときは、自分の欲求に従って行為することになる
    利他的欲求のあり方として身近な人間を重視していれば、
    人類において悪いことでも米国において善いことをする
    利他的欲求が強ければ、自分において悪いことでも米国において善いことをする

    >つまり、スタンスを確定することにより、道徳は科学だと言えるし、
    >幸福が数値で表せれるのなら普遍的な道徳を定義することは可能だと思います
    議論する際に、
    「この議論では人類における善悪を考える」などまず宣言する
    (スタンスを明らかにする)
    そうすれば、その議論において科学としての道徳を使えるわけです

    こういうことは実のところ自然に為されていることだと思います
    例えば日本の国会で死刑制度の是非を議論するときは
    (少なくと建前では)日本の功利(国益)をめぐって議論されているはずです
    これは何が日本において善い法かと争っていることになります
    国連ならば(少なくとも建前では)
    何が人類にとって善いことかを議論しているでしょう
    企業なら何が自社にとって善い政策かを議論するわけです
    善悪という言葉がこのように使われているというのが大切です

    「善悪」は人類においてのみ使われるとしてしまっては
    大きな混乱が生じるでしょうし
    また、善悪の範囲はなぜ人類なのかという問いもでます
    動物も功利を持つのではないのかというのは当然の反論だと思います
  2. 名前: 自殺仏 ◆JalddpaA 2011/04/18(月) 10:44:17 URL [ 編集 ]
    なるほど!
    俺は道徳は全員が同じものを信じる。みなが同じ行動原理で行動するものだと思っていたので、しっくりこなかったのですが、割と裁量で行動できるのですね。納得しました

    それで、「俺」から見た道徳、「日本」から見た道徳… をスタンス別に科学的に定義してしまって、その都度個人が裁量で判断する。

    しかし、それならスタンス別の道徳の定義は科学的で完璧・真理だとしても、個人の裁量が異なるわけだから、結局意見が異なる。科学で定義した意味が無くなりませんか?

    道徳は皆が同じことを思い、同じ行動をするから道徳なのであって
    そこに個人の裁量が入ると、それは「個人の倫理」に当たるような気がします。

    なので、道徳はある種の強制力を持たせるため個人の裁量を除かなければならない
    つまり「可変」という立場を取った時点で「道徳」ではなくなる


    個人の倫理としての判断基準に科学的に定義された善悪を用いるのは構わないのですが、道徳は皆が共有する法律のようなものなので、裁量が入ってはならない。最初からスタンスを明確にして皆に信じ込ませないといけないと思うわけです。


    つまり善悪は可変という立場で論じられますが、道徳は可変では論じられない

    なんか「道徳」という言葉の定義が俺とutilitackey さんとで違うだけな気がします…なので「道徳」を「善悪」に置き換えればutilitackey さんの意見に同意です



  3. 名前: 自殺仏 ◆JalddpaA 2011/04/18(月) 10:54:36 URL [ 編集 ]
    どう‐とく 〔ダウ‐〕 【道徳】

    1 人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。

    デジタル大辞泉からですが、罰則の無い法律と俺は解釈しています
    法律に個人の裁量がないように、道徳にも個人の裁量がない

    しかし、こうしてみると日本の道徳教育はただの管理教育ですよね…
    話が飛躍しますが、道徳に限らず日本の教育は子供の内なる力を引き出すものではなく単なる管理。
    画一的な労働力を生み出す工場であるような気がします…


    追記
    法律に個人の裁量が含まれないというのは
    俺は運転上手いから法定速度+50キロでOK!が許容されないという意味です
  4. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/18(月) 12:44:32 URL [ 編集 ]
    >>3
    そうだね
    自殺仏さんの使い方のほうがしっくりきそうだ
    こういう言葉の使い方はどうだろう…
    善悪に関する学問(倫理学)
    範囲をみんなにしたときの善悪(道徳)

    けどウィキみると、
    倫理学の別名が道徳哲学だったりするんだよね…
    一般には倫理と道徳はあまり区別されていないと感じるし…
    まあとにかく善悪について僕は論じたい
    そして善悪は一種の事実であると僕は考える

    >それで、「俺」から見た道徳、「日本」から見た道徳… 
    >をスタンス別に科学的に定義してしまって、その都度個人が裁量で判断する。
    >しかし、それならスタンス別の道徳の定義は科学的で完璧・真理だとしても、
    >個人の裁量が異なるわけだから、結局意見が異なる。
    >科学で定義した意味が無くなりませんか?
    そんなことはない
    ここでの問題は、「俺からみた善悪」「日本からみた善悪」というよりも
    「俺における善悪(俺に対する善悪)」「日本における善悪」だ
    これは
    「俺の功利の増減」「日本(という集団の構成員の)功利の総和の増減」であり
    功利が電気信号あるいはそれに準ずるものだとすると
    まず、それが事実の問題であることは確かだ
    しかしその測定や予測は今のところ非常に困難であるから
    各人その事実の問題に対して様々な意見をもつだろう
    (富士山がいつ爆発するのかあるいはいつ爆発したのかについていろいろな意見があるのと同じだ)
    いろいろな意見があるからと言って議論が意味を持たなくなることはないし
    「富士山がいつ爆発するのか」という問題と「阿蘇山がいつ爆発するのか」をそれぞれ別々に議論することに意味があるように
    「俺の功利の増減」と「日本の功利の総和の増減」について
    どちらについて論じるかを決めて、それぞれ別々に議論することには意味がある

    >個人の倫理としての判断基準に科学的に定義された善悪を用いるのは構わないのですが、
    >道徳は皆が共有する法律のようなものなので、裁量が入ってはならない。
    >最初からスタンスを明確にして皆に信じ込ませないといけないと思うわけです。
    教育の問題になるのかな…
    どの範囲の善悪でもって教育を行うのか
    教育は社会(国)の為(社会の功利の総和の最大化の為)に行われるものだから
    社会における善悪(上の道徳)でもって行われるべきだと思う
    こどもには、社会における善をしたい欲求を洗脳して植えつける
    けれども、ある程度成長したら、善悪についての範囲は可変であることも教えておかないと
    日本と国際社会(人類)の善悪が異なる問題や
    動物に対する善悪などの問題にぶつかったとき
    ただ善をなせと教育されてきた子どもは相当混乱するだろう
    (現に多くの人が混乱している)

    長々書いたが、僕の説は多分一般的でない(僕はみたことない)
    >>1にも小さく書いたけど、
    普通倫理学は、人類(社会)における善悪というようなもののみを扱うし
    それに異を唱える人も、可変であると主張するよりも
    動物あるいは人格を持つものに拡張(修正)しろと主張している
  5. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/18(月) 13:01:53 URL [ 編集 ]
    >>4
    >法律に個人の裁量が含まれないというのは
    >俺は運転上手いから法定速度+50キロでOK!が許容されないという意味です
    社会における善悪に対していろいろな意見があることと
    その社会の多数派の見解に従わないことの善悪は別だと思う

    多数決で法が成立する社会における法定速度50kmというのは
    運転のうまい人でも50kmまでにすることが善なる法だと
    社会の多数派が考えているということだ

    これと違う意見を持つことはあっていいし
    その意見が正解であるかもしれない

    しかし、たとえ正解であったとしても、
    多数派の見解(法)に従わないことは、
    秩序を乱すことによる功利の減少を生じさせるわけで
    多くの場合、悪になる
    (秩序を乱しても功利が増加するような場合は法を破ることも善になる…
    例えば死にかけてる人を運ぶために100kmで飛ばしたとかならこれに当たるかもしれない)
  6. 名前: 自殺仏 ◆JalddpaA 2011/04/18(月) 13:39:38 URL [ 編集 ]
    >>こういう言葉の使い方はどうだろう…
    善悪に関する学問(倫理学)
    範囲をみんなにしたときの善悪(道徳

    なるほど!倫理と道徳の違い~ってのは余計でしたね…
    俺はイメージとして、西洋=倫理 東洋=道徳  としてました

    >>「俺の功利の増減」と「日本の功利の総和の増減」について
    どちらについて論じるかを決めて、それぞれ別々に議論することには意味がある


    これは俺も完全に同意です。ただ俺が言いたいのはせっかく議論してもそれが反映されなければ意味が無い・もったいないと言いたかった。
    つまり議論するのは有益だから、しっかり最後まで反映させるべきだという意見です(「倫理」とすると反映されるのだから問題がない)


    >>けれども、ある程度成長したら、善悪についての範囲は可変であることも教えておかないと
    日本と国際社会(人類)の善悪が異なる問題や
    動物に対する善悪などの問題にぶつかったとき
    ただ善をなせと教育されてきた子どもは相当混乱するだろう



    全くの同意です。所謂道徳は一つのスタンスからみた善悪で、絶対的な正解・正義ではない。範囲は常に限定されていない



    >>普通倫理学は、人類(社会)における善悪というようなもののみを扱うし
    それに異を唱える人も、可変であると主張するよりも
    動物あるいは人格を持つものに拡張(修正)しろと主張している



    これは単純に「可変」という概念が難しいからではないでしょうか?
    道徳などはシンプルなのが望まれる。
    善悪が可変である・範囲は一定ではない というのは全員が知る必要がないと考えられているからでは?
  7. 名前: 自殺仏 ◆JalddpaA 2011/04/18(月) 14:06:38 URL [ 編集 ]
    >>多数決で法が成立する社会における法定速度50kmというのは
    運転のうまい人でも50kmまでにすることが善なる法だと
    社会の多数派が考えているということだ
    これと違う意見を持つことはあっていいし
    その意見が正解であるかもしれない



    仮にその意見が正しい(個人も全体もプラスにする)としても違法は違法です。病人を運ぶという理由があったとしても

    それは法は恣意的に解釈できない、強制力のあるルールだからです
    道徳も個人の裁量が入らないように、同じような冷たさ・融通の利かなさが必要だという意見です

    本音が倫理で、建前が道徳 
    道徳は普遍的なものだから、円滑に世の中が回るために多少の不条理には目をつぶれということです

    つまり「道徳」は社会における善悪に対していろいろな意見があってはならない
    社会が善と言えばそれに盲従しなければいけない
    それが所謂「常識」や「道徳」だと考えています。
    「空気」や「同調圧力」と言ってもいいかもしれません
    国民皆の善悪の判断がバラバラだと困るので、社会が「道徳」として一つの善悪の模範解答を示さなければならない



    しかし、道徳=倫理とすれば俺の考えは成り立たないのでutilitackey さんの意見に賛成です
  8. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/18(月) 22:11:26 URL [ 編集 ]
    >>7
    自分に対する善悪
    家族に対する善悪
    国家に対する善悪
    人類社会に対する善悪

    これらが矛盾する場合、
    どの範囲の善悪に基づき行動すべきでしょうか
    これについて僕の説では答えは出ません
    自分に対する善悪に基づくのが自分に対して善く(自分の功利を増加させる)
    家族に対する善悪に基づくのが家族に対して善い…となるだけです

    自分を犠牲にしてでも家族に尽くすべきだ
    家族を犠牲にしてでも国に尽くすべきだ
    国を犠牲にしてでも人類社会に貢献すべきだ
    人類社会を犠牲にしてでも地球(動物全体)に貢献すべきだ
    まずどの範囲で考えるのかを前提としておかない限り
    これらに答えることはできないということです

    これは妥当な結論であると思います
    どの集団に奉仕したいかはその人の利他的欲求のあり方(どこまで同情が湧くか)で決まるものです
    どの集団に奉仕したいか(その人の性格)についても範囲を無視した善悪というものはなく
    国家に奉仕する性格は、国家に対して善い
    人類社会に奉仕する性格は、人類社会に対して善い…としか言えないはずです

    逆に、どの範囲で考えるのか前提がはっきりしている場面では答えることが出来ます
    教育をはじめ政治は、国という範囲の善悪(国益)を考えるものですから
    政治家は家族や人類社会を犠牲にしてでも国に尽くすべきでしょう
    学校でも(それを明示的に示すべきかは考慮の余地があろうが)家族や人類社会を犠牲にしてでも国に尽くのが「善」と教えるべきでしょう

    注意して欲しいのは、上で書いたのはあくまで
    自分に対する善悪や、家族にたいする善悪、
    国家に対する善悪、人類社会に対する善悪が矛盾している場合の話です
    個人に人類愛的な利他的欲求があるのなら
    多くの場合、それらは一致することになるでしょう


    >これは単純に「可変」という概念が難しいからではないでしょうか?
    >道徳などはシンプルなのが望まれる。
    >善悪が可変である・範囲は一定ではない というのは全員が知る必要がないと考えられているからでは?
    ベンサムの時代ならそうだったかもしれない
    範囲はとりあえず国民(白人社会)として
    とにかく不合理な法を早くなんとかしたかったんだろうね
    今ある多くの問題は、
    人類と国家に対する善悪の矛盾や
    人類と動物に対する善悪の矛盾からきていたりするから
    これが浸透して欲しい
    可変であることを示した規範倫理(原理)は
    「ある集団の功利の総和を増加させる性質を、その集団における(対する)善という」※個人は要素が一つである集団と考える
    こんな感じ、実のところ
    「功利を増加させる性質を善という」ってのとまったく同じことで
    後者には必然的に前者の意味が含まれていると僕は思うんだけどね


    >>8
    悪法って概念があると思うんだよね
    【法と倫理の関係】って形でスレたてしようかな…
    僕的には
    自然法…合理的な(自己の功利を追求する)契約能力者間に自ずから成立する契約
    ってかたちで考えて
    法における善悪は、契約能力者における功利の増減を考えるものとする
    悪法は、契約能力者の功利を減少させる法であり
    あるべき法は、契約能力者の功利を最大化させる法であると

    自然法や社会契約説と功利主義は対立するってよく言われるんだけど
    功利の考慮範囲を可変としたら、このようにうまく統一できると思う

    で、悪法も法なりで、
    悪法でも破ることによって功利の減少が生じるのは確かだと思うんだけど
    そこはやはり功利の比較衡量が必要なのであって
    法(成文法だけじゃなく不文律も含む)を守ることで
    例えば、地球が滅亡したり、日本が滅亡したりするなら
    法を破ることが善になるのが明らかだろう

    もちろん自殺仏さんのおっしゃるとおり違法は違法だけどね
    (悪法は法でないという考え方に立つとそれもかわってくるけどね
    ざっくり言って憲法は
    「国民の幸福の最大化のために法律を作れ、
    明らかにそうなってない法律は違憲であり法ではない」
    って考え方をしてる
    憲法と法哲学は密接に結びついてるからおもしろい)
    やっぱこれはひとつの論点にするに値するな…
  9. 名前: 自殺仏 ◆JalddpaA 2011/04/20(水) 22:23:23 URL [ 編集 ]
    コメント遅くなって申し訳ない…

    俺は「道徳」って言葉がすっごく嫌いだから、言葉のイメージで噛みついてるだけかな?って思ったりもするんですが…


    道徳と倫理は違うと認識する
    道徳=罰の無い法律として
    (俺は法律=事が起こってから適用する 道徳=事が起こる前に適用する  ってイメージがあります)

    俺のスタンスからみた善悪=倫理
    日本のスタンスからみた善悪=道徳
    とした場合

    制限速度を例にすると
    速度違反する=俺の倫理では善  一般道徳では悪
    速度守る=俺の倫理では悪  一般道徳では善

    ↑これがutilitackeyさんの仰る可変ですよね?
    じゃあ可変ってのは理解した!でも俺は実際速度守るべきなのか、違反するべきなのか って問題が出てきませんか?

    で、可変ではその問題に対応できないと思うわけです。utilitackeyさんもそう仰ってますが


    だから基本はutilitackeyさんの仰る意見に全面的に同意なのですが、
    「道徳」とするならば、それは日本国内の問題なので、スタンスを日本からみた総和に固定してしまったほうがいいと思います

    「倫理」の場合は固定する必要はない

    つまり俺の意見は
    倫理なら可変で、道徳なら日本からみるスタンスをとる
    になります



    まあ俺がこう思うのは、捕まらなければ何してもいい!、やったもん勝ち!とか思ってる社会不適合者だからだと思うのですがw
  10. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/21(木) 05:55:00 URL [ 編集 ]
    >>10
    >コメント遅くなって申し訳ない…
    いやマジで好き勝手にやってね、僕もそうだし
    たくさん来てくれたら嬉しいけども

    言葉はね…僕が今まで書いてきた倫理や道徳を
    全て「善悪」と書き換えてもいいんだけど…
    大変だし、倫理≒道徳≒善悪って使い方も
    一般的でないってレベルではないだろうからこのまま行きたい
    (道徳は定義しなおしてもいいかな…)

    >速度違反する=俺の倫理では善  一般道徳では悪
    これは考慮している功利の範囲はどちらも国民だろう
    国民の功利が増加するか減少するかについて
    「俺」の意見と「多数派(立法者)」の意見が違うということだろう
    僕が言ってる「可変」は、考慮する功利の範囲についてのものだ
    原発を作ることは、東京において善である(東京の功利を増加させる)が
    福島においては悪(福島の功利を減少させる)というような使い方ができるというのが「可変」の意味だ

    功利主義を前提にするならスレタイを
    【功利を考慮する範囲をどうするか】に変えてもいいかもしれない
    (一般に倫理学はこれを人類全体として固定してしまう)

    考慮する功利の範囲はいろいろ考えられるのだが
    その範囲を国としたときの善悪…
    これを道徳と呼ぼうという提案はわかる
    わかるが人類道徳という使い方がある事を念頭において
    僕なら日本国の法(法律のみでない広義)と表現したいかな
    (あるいは日本国の道徳か)
    そうすると、結局、日本国における善悪、東京における善悪…と表現するのと変わらないわけで…
    やはり単なる「道徳」とか「倫理」とかいう言葉に
    国におけるとか、個人におけるというニュアンスを入れるのは
    適当でないかもしれない
  11. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/21(木) 12:38:00 URL [ 編集 ]
    安楽死さんがいい指摘をしてくれた
    【自殺(安楽死)に対する倫理的評価】
    http://utilitarianism.blog109.fc2.com/?no=67#%3E%3E14
    以下上記レスより引用

    あなたは例のスレで、幸福最大化装置に入れれば、子供を作ることは無駄、人類がその世代で途絶えても問題ないと言いました。しかし功利主義で行けば、幸福最大化装置がある世界で人類を途絶えさせてはいけないとも言えます。なぜなら、子供を作り、子供も幸福最大化装置に入れれば子供も幸せな人生を送ることが出来、幸福の量が増えるからです。こうして幸福最大化装置を味わう人を出来る限り増やし、出来る限り長い期間人類を途絶えさせずに、人体も幸福最大化装置のために最適化させるように遺伝子などを操作し、最大幸福を最大人数、最大期間、最大効率で行う方が道徳的に正しいという結論も出せます。
    しかしあなたは幸福最大化装置を作った世代で人類が途絶えても良いと言いました。
    これはどうしてですか?功利主義にも功利の定義に関する複雑な問題があり、問題を抱えているのは義務論だけではありません。どちらもそれぞれ問題を抱えているというのが私の意見です。
  12. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/21(木) 13:09:54 URL [ 編集 ]
    >>12
    どういう時間的範囲の功利を考慮して善悪を判断するかという問題だと思う
    考慮する功利の範囲は可変であるとする僕の立場からは、
    当然、現在及び将来の人類における善悪というものを観念することができる

    けれども、僕らが話題にするのは(現在いる)人類における善悪であることがほとんどだ
    それは僕らが話しているのは(現在いる)人類だからだ
    (現在いる)人類の功利についての話だから、「変人の遊び」ではなく「公の議論」になると言い換えてもいいだろう

    例えば、日本で公に議論する場合は、専ら(現在いる)日本国民の功利をめぐって議論している
    もしかすると、「自分らの死後に生まれてくる子ども達のためにこれ以上借金を重ねないでおこう」というような議論があるじゃないかと思うかもしれない
    それは確かに将来の人類の功利について言っている
    しかし、それは(現在いる)日本国民が、死後生まれてくる子どもの幸せを確信したいというような利他的欲求を持っているから言われる主張なのであって、
    これもまた(現在いる)日本国民の功利についての主張だ
    その証拠に、そのような欲求が無い人は、上のような主張をしない

    幸福最大化装置の倫理的評価についても
    僕らは暗黙のうちに、(現在いる)人類の功利をめぐって議論している
    もしその前提を変えたならば、それは「公の議論」ではなくなるだろう
    自分と(潜在的な)話し相手達の功利を巡る議論だから熱を帯びるのだ
    (現状でも過疎ってるがもっと過疎る)

    この点、あるべき法として議論するならもっと明確になるだろう
    法は契約能力者の功利を最大化させるためにあるのだから
    この場合、契約能力者(現在の有権者)の功利を考慮して善き法か悪い法かの判断をすることになる
    もし社会がより善い方向に向かって進歩するのであれば
    自由主義や民主主義が成立したように
    いずれ幸福最大化装置を強制するような法が成立する

    これは自殺仏さんの
    >で、可変ではその問題に対応できないと思うわけです。
    に対する反論にもなるのかな

    可変であるがゆえに、ここまで前提を巡って議論しなければならないという意味では
    >国民皆の善悪の判断がバラバラだと困るので、社会が「道徳」として一つの善悪の模範解答を示さなければならない
    という主張に説得力が生まれるかもしれないね
    でも僕は、この「前提を巡る議論」が必要かつ有益だと思ってる

    このスレやさっきのスレにも該当しない
    義務論からの功利主義に対する批判が他にもあれば
    【功利主義VS義務論】
    http://utilitarianism.blog109.fc2.com/blog-entry-68.html
    に書いてくれればいいと思う
  13. 名前: 自殺仏 ◆JalddpaA 2011/04/21(木) 19:41:27 URL [ 編集 ]
    >>>速度違反する=俺の倫理では善  一般道徳では悪
    これは考慮している功利の範囲はどちらも国民だろう
    国民の功利が増加するか減少するかについて
    「俺」の意見と「多数派(立法者)」の意見が違うということだろう


    この場合考慮している功利の範囲は
    俺の倫理が俺からみた範囲  個人のスタンス
    一般道徳が国民になります  国民のスタンス
    スタンス別の善悪・功利は科学によって定義されているので、一つのスタンスからみると意見が合いますが、異なるスタンスの善悪が共通しない場合はどちらのスタンスにするべきなのか?
    が問題になるのですが…



    これは、例えば「個人の善悪」なら科学で決まっているので個々で意見が異なることはない
    そして多くの場合スタンス別の善悪も一致する(個人、国民 どちらの善悪で判断しても行動が一致する)

    もし、スタンス別の善悪が異なる、矛盾が生じる場合は総和が大きいほうを優先させる とすれば皆の行動原理も一致しそうですね
    (これがutilitackeyさんの言う可変かな?)




    道徳や倫理に個人や国民のニュアンスを持たせる~っていったのは議論をややこしくさせるだけで、ミスでした…

    (日本には道徳はあるが倫理が無い  村社会的
     欧米は倫理はあるが道徳が無い)  神 対 自分

    ↑今までこういうイメージで認識していたので、utilitackeyさん
    の仰ることがしっくりこなかったです…
  14. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/22(金) 03:00:43 URL [ 編集 ]
    >>14
    >俺の倫理が俺からみた範囲  個人のスタンス
    >一般道徳が国民になります  国民のスタンス
    なるほど
    「俺から見た範囲」ってのは「俺の利他的欲求が及ぶ範囲」ってことだよね
    とすると「個人のスタンス」ってのは
    ある個人の功利の増減(個人における(対する)善悪)と同じ意味になる
    (例えば、あなた個人のスタンスにおいて、
    あなたは家族の功利の増減を考慮していると主張するかもしれないが
    それは実のところ、その家族の功利の増減による自身の功利の増減を考慮しているということだ)

    ところで、個体は、自身において(対して)悪いと「思う」行動をとれるだろうか
    これは自分にとって苦であると思う行動を取れるかということに似ていて
    僕は、動物は、快苦(欲求)によって動くと考えるから、とれないと答える
    これは、【行為(選択)の原理】の話だ
    (この点、注射は自身にとって善であるとわかっているのに無理だという人はどうなんだっていうツッコミができそうだ…動物ではなく理性ある動物とすべきなのか…)

    >もし、スタンス別の善悪が異なる、矛盾が生じる場合は総和が大きいほうを優先させる
    >とすれば皆の行動原理も一致しそうですね
    (理性ある)人間は、自身において(対して)悪である行為をすることはできない
    従って、個人において悪であるのに、国において善であるからといって、行為することはできない
    (だから、教育で利他的欲求を育てたり、刑罰を定めたりして、
    個人における善悪と、国における善悪が一致するように努めている)
    それではなぜ、こういう場で、個人における善悪でなく、
    国における善悪や人類における善悪をめぐって議論するのだろうか
    その答えが>>13になるのだが、逆説的に言えば
    もし、それぞれの個人における善悪をめぐって争うなら
    功利を考慮する範囲がバラバラになって議論にならず
    また、それぞれの個人の善悪において考慮される功利の範囲を統一しようとすれば、
    それは利他的欲求のあり方を統一しようとすることを意味し
    議論は人格攻撃に堕してしまう
    (「君が家族までにしか同情を感じないのは変だ」とか)

    >(日本には道徳はあるが倫理が無い  村社会的
    > 欧米は倫理はあるが道徳が無い)  神 対 自分
    小林よしのりの漫画で見た見解だ
    どこかからの引用だったと思うけど…忘れた
    悪く無い言語の使い方だと思うんだけどね…
    (この日本人観が正しいなら、
    日本人は昔から功利主義的で、欧米は義務論的ってことになるのかな
    で義務論的な社会へのある種の反発として欧米で功利主義が発達してきたと…)
  15. 名前: 自殺仏 ◆JalddpaA 2011/04/22(金) 03:57:27 URL [ 編集 ]
    なるほど

    「俺からみた範囲」と「個人のスタンス」
    を利己的欲求のみでしか考えていませんでした…

    そういや普通の人wは利他的欲求もあるんでしたね…


    >>ところで、個体は、自身において(対して)悪いと「思う」行動をとれるだろうか 」


    無理でしょう。あるいは悪いと認識していなければ出来るでしょうが
    注射の例なら、注射をする行為に限って言えば拒否が善です
    でも長期的にみる・行為の結果も考慮すると注射するのが善です

    どちらを選んでも善だと言える


    >>もし、それぞれの個人における善悪をめぐって争うなら
    功利を考慮する範囲がバラバラになって議論にならず
    また、それぞれの個人の善悪において考慮される功利の範囲を統一しようとすれば、
    それは利他的欲求のあり方を統一しようとすることを意味し
    議論は人格攻撃に堕してしまう
    (「君が家族までにしか同情を感じないのは変だ」とか) 」




    そうですね。利他的欲求と利己的欲求を明確に区分しなければならず
    欲求の範囲も統一しなければいけない


    >>小林よしのりの漫画で見た見解だ
    どこかからの引用だったと思うけど…忘れた


    俺はこの言葉を友達から聞いたので、元ネタは分かりません…

    >>(この日本人観が正しいなら、
    日本人は昔から功利主義的で、欧米は義務論的ってことになるのかな
    で義務論的な社会へのある種の反発として欧米で功利主義が発達してきたと…)


    俺もそう思います。あと共同体をどこに持ってくるかの違いもあると思います
    言葉は悪いですが、日本は自発的に善をしようと考えるのではなく
    周りの目を窺う陰湿な監視社会だと言える
    村社会的で右に倣えの精神

    俺は日本好きですけどねw

  16. 名前: utilitackey ◆8WB1YSfE 2011/04/23(土) 02:45:12 URL [ 編集 ]
    絶対善みーつけた@論客コミュニティー
    http://www.yamcha.jp/ymc/DSC_sure.html?bbsid=1&sureid=176&s=50&k=1#msg1_176_119

    ここでされてる議論が、
    範囲が曖昧であることによる混乱の典型かなと思う

    >>16
    日本は、宗教的な束縛が緩いってことかもしれませんね

コメントの投稿(コメント本文以外は省略可能)





管理者にだけ表示を許可する

最近のコメント

応用倫理のサイトマップ(09/15) cdvloren.it/cdv loren/list.html 応用倫理のサイトマップ(09/15) Hogan Outlet 応用倫理のサイトマップ(09/15) Hogan 2013 ★幸福最大化装置(経験機械・快楽機械)について雑談する★(09/15) exteryCrineve 応用倫理のサイトマップ(09/15) Duvetica spaccio オートアイコン(ベンサムのミイラ)(09/14) beaursebeence 応用倫理のサイトマップ(09/14) ¥Ç¥å¥Ù¥Æ¥£¥«¹«Ê½ 【自殺(安楽死)に対する倫理的評価】(09/14) USA 応用倫理のサイトマップ(09/14) Duvetica ´óÚæ ★幸福最大化装置(経験機械・快楽機械)について雑談する★(09/14) exteryCrineve 応用倫理のサイトマップ(09/14) Barbour Coats マウスでの幸福最大化実験(09/14) セイコー クォーツ 応用倫理のサイトマップ(09/14) michaelmichaelkorsoutletonline.tumblr.com 応用倫理のサイトマップ(09/14) Cheap Ralph Lauren ★幸福最大化装置(経験機械・快楽機械)について雑談する★(09/14) carpinteyrowqz 応用倫理のサイトマップ(09/14) Michael Kors Online Outlet ★幸福最大化装置(経験機械・快楽機械)について雑談する★(09/14) zamwchqslag ★幸福最大化装置(経験機械・快楽機械)について雑談する★(09/14) pgwygfulttx ★幸福最大化装置(経験機械・快楽機械)について雑談する★(09/14) zoezrnfok ★幸福最大化装置(経験機械・快楽機械)について雑談する★(09/14) yxdngtkjjz ★幸福最大化装置(経験機械・快楽機械)について雑談する★(09/14) dusirldna 応用倫理のサイトマップ(09/14) Barbour Jacket Sale 応用倫理のサイトマップ(09/14) Ralph Lauren Outlet UK ★幸福最大化装置(経験機械・快楽機械)について雑談する★(09/14) ルイヴィトン グラフィット 応用倫理のサイトマップ(09/14) Michael Kors Outlet 応用倫理のサイトマップ(09/14) Barbour International ★幸福最大化装置(経験機械・快楽機械)について雑談する★(09/14) LOUIS VUITTON モノグラム ★幸福最大化装置(経験機械・快楽機械)について雑談する★(09/14) グッチ 腕時計 応用倫理のサイトマップ(09/14) Ralph Lauren Polo 応用倫理のサイトマップ(09/14) Mens Barbour Jackets 

最近のトラックバック

テンプレート: 2ちゃんねるスタイル Designed by FC2blog無料テンプレート素材 / 素材サイト: 無料テンプレート素材.com / インスパイヤ元:2ch.net

ページのおしまいだよ。。と
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。